日本列島の考古学的な歴史を見るとは、3万6000年前-1万5000年前の後期旧石器時代そして1万5000年前から2800年前あたりまでの縄文時代にかけて、富士山を含む関東平野周辺に多くの遺跡が出土し、人口密度的にも集中していた。
そして、黒曜石や縄文土器が中国大陸東部から出土し、日本海を越えた人的交流があったことが証明されている。偽書と言われている宮下文書にある「蓬莱山すなわち富士山の山麓の高天原から伏義が中国に渡って、中国の原初神となった」の話は、まるきりのホラ話では無さそうだ()!
すなわち、徐福とその子孫が書き残した宮下文書にある富士高天原とは、火山活動の激しい富士山麓の狭い範囲とせずに、富士山が見える関東平野と考えられないか?!
ただし、徐福が日本に上陸(帰国)した当時、引き連れた童男童女工人達は、既存の住人の居る故地の富士高天原ではなく、佐賀、紀伊半島、秦野などの徐福伝説のある地域に分散定住したと考える方が自然である。
雑談1
極論の空想ではあるが、現在の首都、東京は地理的に日本列島の中心であり、縄文時代以前の当時においても首都であったかも知れない。事実、東京の西部の武蔵野台地には後期旧石器時代から縄文時代の遺跡が群集している。渡来人が急増する弥生時代以降、ヤマト政権が奈良盆地あたりを首都にしたのは、関東平野あたりの在来系弥生人(縄文人)の勢力を完全制圧出来なかったからとも考えられる。
日本の首都が 奈良や京都など関西と、鎌倉や江戸(東京)の関東を行き来する歴史は、実は縄文時代以前にもあったのかも知れない?!
雑談2
赤丸: 日ノ本、オレンジ丸: 常陸(日立)、黄丸: 日高見
時代は大幅に下るが、茨城県あたりを常陸(日立、ひたち、)、福島県から宮城県あたりを日高見(ひたかみ)と呼んだ。この地名の由来について、当時の国名は日ノ本(日下、ひのもと)であり、日ノ本の首都から見て東が太陽が早く立ち上がる日立、北が太陽を見下ろす日高見と呼んだのではなかろうか?!
すなわち、東京あたりが日ノ本の首都にふさわしい位置にあった。
雑談3
大和(ヤマト)とか日本(ニッポン)と呼ばれる前は、特に縄文時代以前は日本列島全体を日ノ本(ヒノモト)と呼んだようだ()!当時の縄文人は山の民(Y- DNA D2)と海の民(Y- DNA C1)からなるが、山の民の密集地域が関東から東北地方であった。
陸奥国(青森県)の十三湊の安東氏は日ノ本将軍を名乗り、豊臣秀吉は東国を日ノ本と呼び、そして青森県の東北町に日本中央碑が存在していることが興味を引く。また、東日流外三郡誌が改めて見直され、日之本文書と命名されて研究が再開されている()。
参考
@ 石器時代()
200万年前、人類は生存のために不可欠な石器を作りだした。旧石器時代の始までりである。日本は酸性の土壌が多いため、骨や生活跡が残りにくく発見しにくい。ここでは3万6000年前-1万5000年前の後期旧石器時代を掲載する。
石材
・黒曜石、良質な頁岩、サヌカイトが石器の石材にあてられた。
・黒曜石の原産地は日本列島の随所に存在し、太平洋に浮かぶ神津島の黒曜石が南関東-静岡の遺跡から出土。
・ロシア沿海地方のオシノフカ遺跡から北海道白滝の黒曜石、朝鮮半島南部の新北遺跡から佐賀県腰岳の黒曜石が出土。
・中国と北朝鮮国境線上に白頭山黒曜石原産地があるが、白頭山の黒曜石が北海道や九州に運び出されたり届いた形跡はない。
石器
・石器作りの技術は、石を割って形を整える打製方法と、打ち割り後に砥石(といし)で磨き上げる磨製方法がある。
・日本列島内で発掘された遺跡の数は1万ヶ所を超え、東アジアの中で際立って多い。
・日本列島各地の遺跡から、3万6000年前の刃の部分を磨いた局部磨製石斧が出土。
・ナイフ形石器は、広郷型、東山型、杉久保型、茂呂型、国府型など、地域によって多様な様式に分類される。
・剥片尖頭器は、九州に集中して少数例が本州に点在し、ロシアの沿海地方や朝鮮半島に分布。
・槍先形尖頭器は、関東-中部に分布。
・湧別系細石器(荒屋型)は、北海道-本州に分布し、ロシアの沿海地方や朝鮮半島に分布。
・矢出川系細石器は、関東-中部-九州に分布。
A 旧石器時代・縄文時代の全遺跡()
B 後期旧石器時代の黒曜石の産地と流通()
C 縄文時代()
D 中国大陸の新石器時代は縄文文化だった()
12000年前頃から始まった日本の縄文時代は、日本列島が大陸から分離してもなお海を越えて自由に東アジア全域と交流していた。
現在の漢民族のルーツの周が中原に侵入する紀元前1000年頃以前の中国大陸(新石器時代、紀元前7500から1500年前)には、縄文人達の同族のほか、河姆渡文化(呉・越系の稲作農民)、そして沿岸部の漁労民が居住していた。
そして、以下の新石器時代の遺跡から縄文土器が出土している。
中国大陸内の縄文遺跡、
北から興隆窪文化、紅山文化、河姆渡文化の遺跡
E 宮下文書(みやしたもんじょ、wikiより)
の北麓、大明見(旧)の旧家、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称。「富士古文書」「富士古文献」などとも称される。が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核部分は中国・から渡来したが筆録したと伝えられている。だが、その信憑性については疑いがもたれており、いわゆるの代表例に挙げられる。
文体はとを併用した記紀風のもので、筆者・成立事情は不明。の用例やなど言語的特徴から幕末期の成立であるとも考えられている。大正時代には宮下文書をもとに美輪義熈『神皇記』が成立した。
F 宮下文書(富士古文献)によると伏義、神農、炎帝、黄帝らが秦の始皇帝、神武天皇、徐福などのルーツとなっている。原初神の伏義は日本列島の蓬莱山の高天原から中国大陸に進出した(神奈川徐福研究会、)。
G 富士山麓の縄文時代の遺跡()
気候が温暖になり、人々が定住生活を始める旧石器時代後期から縄文時代に入った12,000年前頃、河口湖の鵜の島(ウノシマ)や都留市宝地区(壁谷遺跡)で人々が生活していた痕跡が発見されている。
当時、鵜の島のある現在の河口湖は存在せず、古富士北麓には古せの海と呼ばれる湖があったと推定されているが、古せの海は現在の西湖、精進湖、本栖湖の場所に相当すると考えられるので、当時の鵜の島が現在のように湖に囲まれていたかどうかは定かでない。当時鵜の島は古富士の雪代(ユキシロ)や泥流を避けた高台の生活の場だったのだろうか、縄文時代初期の住居跡は多くが見晴らしの良い高台に発見されているように、鵜の島もその一ヶ所だったのかもしれない。富士山を見上げる鵜の島遺跡は、古富士から新富士が誕生する縄文時代、そしてその後弥生時代から中世にかけて人々が生活していた痕跡を残している。これは縄文時代以降富士を見上げる鵜の島で10,000年以上にわたって連綿と人々の生活が続いていたことを物語っている。
富士吉田市北側にそびえる天上山を見上げた山際に発掘された池の元(いけのもと)遺跡でも縄文時代早期から平安時代にかけて人々が生活した土器や住居跡が発見されている。
富士山は、縄文時代草創期を前後して、今から12,000年程前に梨ヶ原溶岩流を噴火をしている。また、縄文早期、およそ8000年程前には大月市まで流れた猿橋溶岩流も噴出している。このように、この時代の噴火は激しく、山頂から全方向に大量の溶岩を排出している。縄文草創期の人々は噴火の度に高くなる古富士から新富士への変化を見ながら生活していたのかもしれない。そして、大量の溶岩流が焼き尽くす様を見ながらなんとか静まってもらおうと祈ったことだろう。
激しい古富士の噴火活動はやがて縄文時代早期に入ると山頂噴火から側火山噴火に変化してくる。新富士火山の噴火活動が活発になって来る。9,000年程前忍野村の大臼、小臼が噴火、気候は氷河期が終焉し温暖に変わり、定住地を中心とした生活に変わってくる。竪穴式住居や土器が用いられるようになる。
縄文時代前期の初め、今から7,000年程前と思える都留市久保地遺跡では火山灰に埋もれている住居跡が発掘されている。